比 叡(4)




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比叡山に宮沢賢治の足跡をたどります。






大講堂から大乗院、下山路へ






 この日、宮澤政次郎・賢治父子は、午後3時ころ延暦寺・東塔の根本中堂に到着し、大講堂で最澄の肖像画を拝したあと、諸院を巡礼しつつ下山路へ向かいます。





「根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは参詣人もなく、研学の僧もない、静かな講堂を見て内心甚しく憤懣でありました。

  
〔…〕

 そして心からなる祈を捧げました。

  
〔…〕

 また伝教大師がこの御山に、道場を建立した遥けき日に深い思いを致しました。

  
〔…〕

 帰途は裏に回って白川路を行くこととなりました。この道も京の方から来た巡礼姿の巡拝の女人に会ったほかは、誰にも会わず、淋しい道でありました。山を下る頃、既に黄昏
(たそがれ)になりまして

  
〔…〕

 水音のみの真暗い大原の町を過ぎ、京の出町柳から市電に乗って疲れた身体を三条小橋の布袋屋に投じました。」

(佐藤隆房『宮澤賢治』,第5版(改訂増補版),1970,冨山房,pp.70-72.)




白川道から京都市街を望む。

山中町・一乗寺境界尾根から。3月上旬、午後4時頃。






地図A(比叡山西南面)



 大講堂から先の宮澤父子の道すじについては、通説は、次のように推定します:

 (a) 東塔(根本中堂・大講堂)→ 大乗院 → 白川道 → 北白川 → 出町柳


 まず、下山路として《白川道》を使ったことは、↑上の佐藤氏の記述にもありますが、小倉豊文氏も:


「彼らは『白河越』の道を京都を目ざしてひたいそぎにいそいだ。
〔…〕根本中堂から大乗院、七曲がりの嶮を経、地蔵谷から銀閣寺の裏手の白川村の降り口まで一里三十余町ある。」


 と書いているそうです
(⇒宮澤賢治の詩の世界:父子関西旅行に関する三氏の記述

 堀尾青史氏は、どの下山路をとったとも書いていません。

 政次郎氏が、“白川道を下った”と語っていたことはまちがえないでしょう。





 大乗院に立ち寄ったと書いているのは、小倉氏だけですが、東塔から白川道へ回ったとすると、無動寺・大乗院は、通り道になりますから
(比叡山ドライブウェイは、もちろん当時はありませんし、今でも歩行者は立ち入れません)、これも可能性が高い。


 そういうわけで、ギトンは、(a)通説のとおりでよいと思うのですが※、ほかの可能性についても少し検討してみます:



 (b) 東塔 → 大比叡・四明岳の北側を巻く → 雲母
(きらら)坂 → 修学院 → 出町柳

 このルートならば、東塔からいちばん早く京都の町に下りられます。下りた後で、かなり歩くことになりますが。

 このルートを主張している論者はいません。資料的根拠が無いからです。



 (c) 東塔 → 西塔 → 横川 → 坂本?

 延暦寺で唱えてられている説だそうですが、京都へ下って三条の旅館に泊った史実を無視しているので、受け入れられません。

 西塔または横川からは、京都側へ下る路もありますけれども、下山口から京都・出町柳(当時の市電終点)まで、徒歩数時間かかってしまうので、やはり無理でしょう。





※ なお、通説は、根本中堂の時刻を午後3時頃としているので、二見からの列車・汽船の時刻に矛盾が生じることは、本記事(旅程ミステリー:東海篇(2))で触れました。
  そこで、二見発の列車時刻を通説(『新校本全集』)のとおりにすると、根本中堂到着は午後4時半以後になるのですが、その後《白川道》を回って、非常に遅く京都に着いたと解する見解もあります(⇒宮澤賢治の詩の世界(所要時間の検証) 宮澤賢治の詩の世界(下山路の検討))。この説ですと、日没頃以後に桜茶屋から下山の坂道にかかったことになって、木屋町三条の宿屋には、どんなに早くても午後9時20分以後(“8時20分”は、昭文社の山地図のコースタイムを、1時間短く読み違えておられるのではないかと思います)、おそらく午後10時ないし11時以後になってしまいます。しかし、それも不可能ではないですし、この説は他の点でも種々うなずける優れた見解なのですが、「午後1時坂本港」「午後3時根本中堂」という資料的根拠には背馳します。‥ギトンは、やはり、二見ではなく山田駅から一番列車に乗って、根本中堂は午後3時、その後、疲れた脚を労わりながら、白川道へ回って無理なく下山したと考えます。






琵琶湖
 中央右寄りに琵琶湖大橋
坂本ケーブル・延暦寺駅から。





琵琶湖
 中央は安土・長命寺山
坂本ケーブル・延暦寺駅から。





       ※

 みづうみは夢の中なる碧孔雀まひるながらに寂しかりけり。

(『歌稿B』#783)



 #783 は、「まひる」とあるので、根本中堂に着いた午後3時以後ではなく、登り路の途中で詠んだ歌だ───と推定する研究者が多いのですが、


 登り道の途中に琵琶湖の見えるような場所が無いことは、前回お話したとおりです。午後3時台でも日はまだ高いですし、湖面が光を反射してまぶしい風景を「まひる」と言っても、おかしくはないと、ギトンは思います。


 この部分に限らず、ミヤケンの歌稿は、非常に正確に、詠んだ現場の順序で歌を並べていると思います。それはおそらく、短歌で“日記を書く”という中学時代以来の習慣のためだと思うのです。

 しかも、ここは「大講堂」という見出しをつけた連作ですから、大講堂から先の風景でなければおかしいと思います。

 じっさい、大講堂から無動寺・大乗院へ向かう道には、琵琶湖を展望できる場所がいくつかあるのです。



 それにしても、なぜ「碧孔雀」なのでしょうか?

 ↑上の写真は、琵琶湖全体が一枚の画面に入らないので、見にくいのですが、

 このあたりから見下ろした琵琶湖は、たしかに、羽根を広げて寝そべったクジャクの形に似ています。北湖(琵琶湖大橋より北)が、広げた羽根、南湖(琵琶湖大橋より南)が首と頭です。

 「夢の中なる碧孔雀」と詠っていますが、春霞の中にぼんやりと浮かぶ・眠りこんだようなクジャクのイメージは、『春と修羅』など、のちのちの作品にも現れます。⇒ゆらぐ蜉蝣文字 7.1.9-10 7.1.16 そして、賢治の《心象世界》の中で、上下が逆転し、


「青ぞらいつぱいの無色な孔雀」
(『春と修羅』「序詩」)


 のモチーフとなるのです。

 この時の眺めの印象は、延暦寺に詣でての複雑な感情とともに、賢治の中で、ずっと尾を引いていたわけです。







無動寺・大乗院

親鸞が、比叡山で修行をした場所。親鸞の“蕎麦喰い木像”で有名。
無動寺の下部にある小さな宿坊で、通りすがりに立ち寄っても
時間はかかりません。大乗院からは、来た道をまた上がるのでなく、
白川道(桜茶屋)方面(弁天堂)へ、横に行く近道もあります。






        ※ 随縁真如

784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌
(しちぜつ)のかぎを得たまふ。


        ※

785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたす厚朴
〔ほお〕の花かも。


        ※

786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

(『歌稿B』#784-786)




 「随縁真如」:

 「真如」(しんにょ、ブータタター)は、「『あるがままであること』という意味があり、真理のことを指す。」(wiki)

 その「真如」が、生滅を超えて不変であることを「不変真如」と言う。その「絶対不変である真如が、縁に応じて種々の現れ方をすること」を、「随縁真如」と言う。



「真如の体性・本質は永遠に変わらないので『不変真如の理』といいますが、縁に従って種々の相を起こすので『随縁真如の智』というのです。

 例えば、空の月の実体は不変真如ですが、雲によって相が変わった月は随縁真如です。

 化学式 H2O と書かれる水は、常温の常態では液体ですが、これが氷点以下なら氷になり、沸点を上回ると蒸気になります。
〔…〕液体を通常は水と呼称しこれが不変真如であり、変化した氷や蒸気は随縁真如に相当するのです。

  
〔…〕

 随縁真如の『智』とは、知恵であり、働きであり、私達の目にふれて心に感じる生活そのものであり、具体的な表現となります
〔…〕(⇒日蓮仏法用語「随縁真如の智」



 これは、たいへんおもしろいことになりました(^^)。

 もっと私たちになじみのある用語で言うと、

 「不変真如」は、物の《実体》ないし《本質》、「随縁真如」は、《現象》と言い換えてもよいのではないでしょうか?



 ギトンは以前に、

 “宮沢賢治の《心象スケッチ》という考え方は、フッサール現象学によく似ている。《心象》とは、単なる心の中のイメージではなくて、眼に見える《現象》そのもの、刹那刹那変化してやまない森羅万象のことである。”

 という議論をしたことがあります。⇒『生き生きとした現在へ』第4章(ii)

 《心象スケッチ》は、『春と修羅』のみならず、広い意味では賢治の全作品を貫いている芸術理論───ないし、理論化されることなき実践───だと言ってよいと思います。

 その“芸術実践”の糸口を、賢治は、この時見出したのかもしれないのです‥!



 さて、そこで、「随縁真如」の見出しの下にある短歌を見て行きますと‥‥、まず、#784 の「七舌のかぎ」という難解な言葉にぶつかって、さっそく躓くことになります。。。



 延暦寺には、《八舌の鑰
(かぎ)》という故事が伝えられているそうです。((「鑰(ケン)」は、ふつうは、鍵を差し込まれる錠前のほうを意味しますが、ここでは鍵のほうを指します。)

 こちらをぜひ、読んでみてください⇒八舌の鑰

 じっさいに、延暦寺には、“これが、最澄の掘り出した《八舌の鑰》だ”という複雑な形の鍵が、寺宝として保管されているそうですが‥w



 故事の真偽はともかく、賢治の短歌の「七舌のかぎ」は、「八舌のかぎ」の記憶違いだろう‥ というのが、小沢俊郎氏の説です(『定本宮澤賢治語彙辞典』)。

 「八舌のかぎ」のことだとすると、この歌は、最澄が《八舌の鑰》を掘り出した伝説を述べているにすぎないことになります。


 しかし、「みまなこを ひらけば ひらく」「あめつち(=天地)に」‥という語り出しは、《八舌の鑰》の伝説と符合するでしょうか?なにか違うような気がします。

 むしろ、森羅万象を見通す“眼力”のようなものを、強調しているおもむきがあります。


 《八舌の鑰》伝説のほうは、中国の智の放り投げた鍵が、根本中堂の工事の穴から、偶然にも出てきたという摩訶不思議な話で‥、最澄の“眼力”とは関係ありません。



 そればかりではなく‥、この歌に続く #785, #786 を見ると、ここで急に調子が変っていることが分かります。

 “大師の・み心が読めない”“大師の時代は、もはや遠い過去になってしまった”“華美に飾られた大講堂は、わびしい”“明るく輝く琵琶湖は、「真昼ながらに寂しかりけり」”‥と、ひたすらに幻滅の悲哀を詠ってきたのに、ここで急に変わって、

 #785は、何か新たな信仰が沸き起こったかのような歓喜、 #786は、大講堂の「またたく灯」に、心強い希望を見出しています。

 そして、長い低調子の連作の後で、突然に上向する境目の #784 には、“鍵を得た”という見逃せない表現が現れるのです。

 “鍵を得た”のは、実は、作者である賢治自身なのではないか?‥と考えたくなります。

 そうすると、この「七舌のかぎ」は、「八舌のかぎ」の単なる記憶違いではなく、最澄の伝説をもじって、独自の“ものがたり”を創作しているのではないか?

 それは‥: 最澄が心眼(まなこ)を開けば、天地もまた身を開いて、その深奥の真理をかいま見せる。‥‥つまり、「(最澄が)み・まなこを開けば、開く天地
(あめつち)」と読みます。

 そのような・見者の透視に応じて身を開いた天地の真の姿から、見者は、「七舌のかぎ」───森羅万象をありのままに(理論や教義や先入見によって遮られることなく)みるための方法(かぎ)を、獲得するのです。

 そうして、《現象》を《現象》として“見る”方法を学んだ見者とは、最澄に仮託された賢治自身にほかなりません。







大乗院から白川道へ

無動寺から、下山路の《白川道》起点の桜茶屋(比叡山ドライブウェイで、
料金所と「比叡山」の石碑がある処が桜茶屋跡)へ回る道は、現在は
東海自然歩道の一部になっているので、整備が行き届いています。





大乗院から白川道へ



 無動寺から下山路の《白川道》起点へ向かう小径は、急斜面に彫り込まれたトラバース。花崗岩の露出した崖をひやひやしながら下りたり、鬱蒼と繁った暗い杉林を抜けて行きます。

 主稜の東斜面であり、傾いた西日はまったく差さないので、父子がここを通った時刻には、もう薄暗かったはずです。



 ところで、さきほど見た #785 の歌は、じつは、ミヤケンが歌稿に改作の手を加えたあとの形でして、手入れ前は、↓このような歌でした:
 


         ※

785 さながらにきざむこゝろの峯々のなかにもここはもなかなりしか。




 「もなか(最中)」は、“真っ盛り。さいちゅう。”という意味。

 「さながらに きざむ・こゝろの峯々」は、まわりの険しい山々と同様に険しく刻んでいる心の中の風景‥という意味でしょう。

 その「峯々」の中でも、ここは真只中の険阻な場所にちがいない‥


 日の暮れた深山の危険な横這い径を、谷底に転落する危険を冒しながら通過する賢治父子の心細い気持ちが察せられます。↑この元歌は、ここで詠まれたにちがいない‥とギトンは思いました。




 ↑この初期形には、まだ、“ホウの花が咲き渡った”という“発見”のニュアンスはありません。しかし、この歌自体が、


 けわしくも刻むこゝろのみねみねにさきわたりたるほゝの花はも。


 という、1918年の〔峯や谷は〕の挿入歌を想起して書いていることは明らかです。“発見”の予感、ないし糸口は、比叡山詣での時点でつかんでいたと言うべきでしょう。


 なお、上の改作推敲の筆記具は、〔峯や谷は〕を改稿した童話『マグノリアの木』の最終推敲に用いられたのと同じ黒鉛筆です。

 1922-23年頃、『マグノリアの木』を書いた後で、#785 も改作したものと思われます。⇒本記事参照





∇ 本記事はこちら:
ギトンのあ〜いえばこーゆー記

∇ ⇒旅程ミステリー:東海篇(3)





        ※

786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

(『歌稿B』)



 延暦寺詣での最後に置かれたのが、↑この短歌です。

 これを、どこで詠んだかなのですが‥、ギトンが実見したかぎりでは、“賢治ルート”から大講堂が見えているのは、現在の坂本ケーブル・延暦寺駅へ行く途中までです。ケーブル駅を過ぎると、東塔の堂宇は尾根に隠れて全く見えなくなります。その後の、大乗院や、東海自然歩道からは、もちろん見えません。桜茶屋跡を過ぎて《白川道》にかかると、一本杉あたりで比叡山頂(四明岳・大比叡)を展望できる場所がありますが、東塔はやはり全く見えません。

 つまり、東塔の堂宇が見えるのは、大講堂を出発して10分〜15分程度の間だけなのです!

 したがって、通説の《賢治ルート》を前提にする限り、#786 は実景ではない‥と考えるほかないと思います。

 (じつは、(c)説ですと、この点だけは、きれいに解決します。西塔から横川へ行く途中、もう横川に近づいたあたりで、東塔が谷を挟んだトイ面になる場所があるのです。そこからならば、大講堂の「灯」も、眼が良ければ見えたかもしれません‥)

 賢治の「講堂あたり」という表現が微妙です。

 (想像になってしまいますが)桜茶屋のへんから大比叡を望んで、“あの山頂の右斜面あたりに大講堂があるはず。もし、ここから見えていれば、もう日暮れだから、灯がまたたいて見えるはずだ。”という気持で「ふりさけみ」たのではないでしょうか?‥

 しかし、いずれにせよ、この歌は、これまでの歌とは違って、最澄の大講堂に、希望の光を仰ぎ見ているのは、まちがえないと思います。


 ギトンが、(c)説を読んで
(⇒宮澤賢治の詩の世界((c)説のテープ起こし)たいへん興味深く思ったのは、“宮澤父子は、横川にも行った”と主張されている点です。というのは、横川には、日蓮が修行した旧跡(定光院)があるからです。

 親鸞の大乗院、日蓮の定光院、この両方に詣でることができたとしたら、賢治サンもさぞかし満足したことでしょう。

 しかし、実際には時間がなくて、日蓮の旧跡には行けなかった‥。そのことも、父に従いつつ、自らは暗い気分で比叡めぐりを終えた賢治の本懐として、連作短歌に現れているのだと思います。。。




白川道から大津市街・琵琶湖を望む。

一本杉駐車場から






∇ 次の記事⇒:比叡(5)




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