荒川の碧き流れに(1)




ランキングヘ







荒川は、秩父山地の奥、埼玉・山梨・長野3県境に源を発して関東平野を縦断し、東京湾に注いでいます。下流では“隅田川”と呼ばれるこの河が、賢治と浅からぬゆかりで繋がっていることは、意外に知られていません。。。





荒川沿いの此処彼処、宮沢賢治の足跡をたどって行きます。





熊 谷





 1916年9月2日から8日まで、関豊太郎教授らに引率された盛岡高等農林学校第2学年の一行は、秩父地方の荒川沿いで地質調査見学を行いました。

 8月中、東京でドイツ語講習会を受講していた宮澤賢治は、上野駅で一行に合流し、高崎線で、最初の宿泊地・熊谷へ向かいます(⇒トキーオ(14)






熊谷・本町通り
 1910年頃
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 熊谷』(国書刊行会,1978年)から



 賢治ら一行が宿泊したのは、本町通りに面した旅館『松阪屋』だったと推定されます
(萩原昌好『宮澤賢治「修羅」への旅』,1994,朝文社,p.262.)

 賢治以外の参加者の多くは、盛岡などから夜行列車で到着して疲れていたので、この日には巡検はなく、熊谷に到着した後は自由時間だったと考えられます。

 賢治は、宿屋のある本町から程近い熊谷寺
(ゆうこくじ)を訪ねています。





松坂屋旅館・跡 
熊谷市本町1丁目63
赤丸の駐車場(松坂屋本町駐車場)が、
松坂屋旅館の敷地だったと推定される。
白枠は、高城神社の鳥居。
道路は中山道(国道17号線)、白矢印方向は高崎。

「松坂屋旅館」は、熊谷市本町3丁目(当時)、
高城神社参道と中山道が交差する中山道沿いに
あったとのこと。現在このあたりは空き地に
なっていますが、「松坂屋本町駐車場」という
看板を発見!! この駐車場が、松坂屋旅館の
旧敷地なのではないか?






 熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるヾ/と泪あふれぬ。


 武蔵の国熊谷宿に、蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日。

宮澤賢治書簡[1916.9.5.保阪嘉内宛]




宮沢賢治歌碑
 熊谷寺前

気をつけていないと見過ごしてしまう
小さな碑ですが、
「八木橋」デパート玄関前にあります。




宮沢賢治歌碑
 熊谷寺前

同じ歌碑の裏面。







熊谷寺
 本堂
1915年以後、大正時代か
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 熊谷』(国書刊行会,1978年)から



 宮沢賢治が訪れた当時、熊谷寺は、安政元年(1854年)の大火で消失した伽藍の再建が前年1915年に完成したばかりでした。

 新築の真新しい本堂の破風屋根は、堂々とした壮麗な印象を与えたにちがいありません。




熊谷寺 
本堂
現在の景観(2018.3.20.)







熊谷寺
“平敦盛の碑”
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 熊谷』(国書刊行会,1978年)から




 賢治の和歌には、「蓮生坊がたてし碑の」とありますが、この「碑」とは、熊谷寺境内に当時あった“平敦盛の供養碑”と思われます。

 「蓮生
(れんせい)」は、平治の乱〜源平合戦期の武将であった熊谷次郎直実(くまがやのじろう・なおざね)が出家して名のった法名(僧としての名)です。

 熊谷氏は、武蔵国熊谷郷(現・熊谷市)を本拠地とする在地領主で、桓武平氏の末裔とも言われます。

 熊谷直実は、もと平知盛(平清盛の四男)に仕えていましたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱(1180-85 源平合戦)を源氏方で戦って鎌倉幕府の御家人となりました。

 一ノ谷の戦い(1184年)での平敦盛と熊谷直実の一騎打ちは、『平家物語』に描かれて伝説化し、さまざまな脚色で、能、謡曲、幸若舞などに取り上げられています。




熊谷次郎直実

熊谷駅北口広場にある銅像






 (平家方は、一の谷の陣から船で敗走しようとしていたが、数え17歳の少年だった平敦盛は、乗り遅れて波打ち際でうろうろしているところを、源氏方の熊谷直実に発見されてしまった。)

 熊谷、

 「あれは大将軍とこそ見まゐらせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。」

 〔「そこを行く(立派な武具を着けた)お方は、(平家の)大将軍とお見受けいたします。敵に後ろをお見せになるとは、ひきょうではありませんか。引き返し(て、私と一騎打ちをし)なさい。」〕

 と扇を上げて招きければ、
(敦盛は)招かれてとつて返す。

 みぎはに打ち上がらんとするところに、

 〔敦盛が、波打ちぎわに上がろうとするところに〕

 押し並べてむずと組んでどうど落ち、とつて押さへて首をかかんと、かぶとを押しあふのけて見ければ、

 〔(熊谷は、馬を)並べてむんずと組んで、どうっと(相手もろとも馬から)落ち、(地上で、相手=敦盛を)とり押さえて、首をかき切ろうと、兜を開けて(相手の顔を)見ると、〕

 年十六、七ばかりなるが、薄化粧してかねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。

 〔(平家の大将軍と思ったのは)十六,七歳くらいの(若武者)で、薄化粧をしてお歯黒をつけている。わが子の小次郎と同じくらいの年齢で、容貌が、たいへんに美しかったので、どこに刀を突き刺したらよいかもわからない(=どうしても傷つけることができない気持になってしまった)〕

 (そこで、直実は、

 「自分は武蔵の国の住人、熊谷次郎直実という者です。」

 と言って、相手にも名乗らせようとするが、相手の若武者は、名乗ろうとはせず、

 「(おまえは関東から来た田舎者だから私を知らないのだろうが、)私は、おまえが討ち取って手柄を立てるには、良い敵だ。私の首を取って人に尋ねてみよ。誰でも知っているはずだ。」

 と言うばかり。直実は、若武者の容姿が美しいばかりでなく、態度も凛々しく立派なことを見て、助けて逃がしてやろうとするが、

 その時後ろから味方の軍勢がやってきたのが見えた。ぐずぐずしていると、敵の武将を逃がそうとしている裏切り者と見なされてしまう。)

 熊谷涙をおさへて申しけるは、

 「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵雲霞のごとく候ふ。よも逃れさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、のちの御孝養をこそつかまつり候はめ。」
〔「私の手で殺して、のちのち供養をして差し上げましょう〕

 と申しければ、

 (若武者は)

 「ただ、とくとく首を取れ。」

 とぞのたまひける。

 熊谷、
〔…〕前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。〔泣く泣く、その若武者の首を刎ねた。〕

 「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうき目をば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな。」

 とかきくどき、そでを顔に押し当てて、さめざめとぞ泣きゐたる。

 (直実が、若武者の首を包むために、死体の鎧を取って、直垂(ひたたれ)を脱がせてみると、腰に、袋に入れた笛を携えていた。)

 「味方に東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛をもつ人はよもあらじ。上ろうは猶もやさしかりけり」

 〔味方の東国勢は、何万騎あるか分からないが、戦場へ笛を持ってくる人など、ひとりもいないだろう。しかし、身分の高い人は、こんなにけなげでりっぱな心を持っているのだ!〕

 (直実が、この笛を、源氏の大将軍義経のところへ持って行って見せたところ、涙を流さない者は無かった。

 また、この若武者は平清盛の甥・敦盛で、17歳だったことも判った。

 戦場とはいえ、敦盛を手にかけて殺さざるを得なかった体験は、直実をして、世を捨てて仏道に帰依したいという気持を、いやがうえにも強めたのだった。)

『平家物語』巻第九「敦盛最期」






 その後の史実としては、熊谷直実は、1193年に法然の弟子となって出家し、「蓮生」と名のり、各地に浄土宗の寺院を開いた後、故郷の熊谷に戻って念仏三昧の生活を送り、1207年に没しました。

 しかし、遺骨は、遺言によって京都府長岡京市の浄土宗総本山・光明寺に安置され、そこに墓もあります(⇒Wikipedia“熊谷直実”




 埼玉県熊谷の蓮生山熊谷寺(ゆうこくじ)は、蓮生が念仏三昧の生活を送った庵があったとされる場所に、室町時代になってから建立されたもので、↑上の『ふるさとの想い出写真集』の説明によると、蓮生の墓とされる宝篋印塔があるようです。


 しかし、宝篋印塔は、亡くなった高貴な人の死後供養(追善)や、生前の逆修(死んだ時に成仏するように、生きている間に供養を済ませておくこと)のために建てるもので(⇒Wikipedia“宝篋印塔”)、ふつうに考えれば、貴人であった敦盛の追善にこそふさわしいものです。

 その傍らにあったという“敦盛の碑”に、どんな碑文が刻んであったのか分かりませんが(現在、この碑は熊谷寺に存在しないようです‥)、「敦盛追善碑」とでも記されていたとすれば、


 宝篋印塔は、敦盛の追善と、直実自身の逆修のために建てられたもの。その隣りの“敦盛の碑”は、そのことを示すために直実が建てたもの‥と解してもおかしくはありません(もちろん、この宝篋印塔は“関東式”であり、室町時代以降の様式ですから、“直実が建てた”ということはありえないのですが‥)


 思うに、1916年に熊谷寺を訪ねて、宝篋印塔と“敦盛追善碑”を見た宮澤賢治も、そのような解釈をしたのではないかと思うのです。


 熊谷直実が、若くして戦場に散った敦盛──不本意にも自分が手にかけて殺さなければならなかった敦盛のために、この碑と宝篋印塔を建てた‥‥京都から、「はるばる」故郷にやってきて建てた‥‥賢治は、そのように理解して、

 「熊谷の蓮生坊がたてし碑の‥」

 と詠んだのではないでしょうか?






熊谷寺 
山門
現在の景観(2018.3.20.)





∇ 本記事はこちら⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜




しおり
記事一覧を見る

ギトンの人気記事

  • 南湖と大津(4)
    投稿日時:2018-03-18 17:28:18
  • 南昌山と毒ヶ森(2)
    投稿日時:2018-11-24 23:25:02
  • ハームキヤ(17)
    投稿日時:2018-08-06 04:18:09

おすすめトピックス

カテゴリーランキング

趣味全般カテゴリーの人気記事ランキング

ピックアップブログ
新着おすすめブログ