トキーオ(14)




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宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。




東京での賢治の足跡をたどります。









麹町、神田、小石川(地図)





千鳥ヶ淵

1916年夏、『東京独逸学院』への宮沢賢治の“通学路”





「多分は宅に御出でのことと思ひます。

 この間殊によつたら帰省の途中で訪ねて御出でになるかと待つて居りました。私は毎日神田の仲猿楽町迄歩いて行つて居ります。ワス イスト ダスなどははるかに丁度岩手さんの七合目から二合辺を見下した様に威張つて居ります。
〔…〕

 今度は浅草へ木馬に乗りにも行きませんしさて又電車の火花ばかりを眺めても居りません。又都会のランブラアと一緒になつて町を歩いたこともないではありません。

 講習会は高等学校の生徒も三人ばかり居ます。友達も二三人できました。高橋君(学校の)が出て来ました。一諸に居ります。」

1916年8月17日「甲斐国北巨摩郡駒井村 保阪嘉内」宛て。




「高橋君」は、高等農林寄宿舎『自啓寮』で、この前年(保阪が入学して来る前)に同室だった同級生の高橋秀松のこと。秀松は、8月5日以後に来京して、10日間前後賢治の下宿先で同居しています。

↓つぎは、帰宅後の秀松からの葉書に、賢治が書いた返事。




「御葉書拝見致しました。

 こちらに御出の間は色々御迷惑を掛けまして御申し訳なく存じます。殊に御帰りの時は非常に急がせ申して済みませんでした。

 一般に見送りして行く者の方が見送られる人よりもつらい様でございます。あれから私は銀座を晩くまで歩きました。もう前の様に灯も私を動かしません。即ち東京に飽きたのでございます。」

1916年8月28日「宮城県名取郡増田町 高橋秀松」宛て。





夜の銀座通り

当時は、まばらなガス灯に照らされた薄暗い通りで、
夜の人通りも今ほどではなかったはずです。





 日本橋この雲のいろ雲のいろ家々の上にかゝるさびしさ。

『書簡中の短歌』#146 
(保阪嘉内宛て)  


※ 植物園

 八月も
 終れるゆゑに
 小石川
 青き木の実の降れるさびしさ。


※ 上野

 東京よ
 これは九月の青りんご
 かなしと見つゝ
 汽車にのぼれり。

『歌稿B』#347,349 





小石川植物園
 かりん林
↑上の歌は「青き木の実」というだけで
何の木か書いてありませんが、『小石川植物園』の奥で
たくさんの実を落としているカリンではないかと思いたく
なります。というのは、『風の又三郎』の“挿入歌”に:


 青いくるみも吹きとばせ

 すっぱいくゎりんもふきとばせ

 どっどどどどうど どどうど どどう


とあるからです。

そういえば。。。 『風の又三郎』の創作モチーフの一つは、
“遠くの友”嘉内と、彼から聞かされた“八ヶ岳颪”の
追憶なのでしたね。




小石川植物園
 かりん林





小石川植物園
 かりん林





小石川植物園

ここの樹木は剪定をしないので、自然のままの枝振りがみごとです。





「あなたが手紙を呉れないので少し私は憤つてゐますがまあ今日から旅行の話しを致します。今日はその序であります。

 今博物館へ行つて知り合ひになつた鉱物たちの広重の空や水とさよならをして来ました。又ニコライの円屋根よ。大使館の桜よ。みんな さようーなら。」

1916年8月17日「甲斐国北巨摩郡駒井村 保阪嘉内」宛て。



 「旅行」は、9月1日から埼玉県秩父で行われた盛岡高等農林・第2学年の地質調査見学旅行(関豊太郎教授引率)。上野駅集合でした。

 賢治は、「あなたが手紙を呉れないので少し私は憤つてゐます」などと書いていますが、親の眼の届かない東京で高橋くんと「いっしょにおります」うんぬんの手紙を、嘉内があえて無視した気持ちは、とてもよく分かる気がしますw

 ともかく、賢治の“青りんご”の悲しみは、夏が終ろうとする季節のせいばかりではないようです。。。




夜の銀座通り





∇ 本記事はこちら⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜




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