Love Rescue

月夜の青が雨ににじむ時 @

ほんの小さな田舎町でのこと。
10月。

古いプジョー505のエンジンを吹かして走り、夜景が一望できる小高い丘に着いた。
油が切れて軋むドアを開け車を降りてみると坂道を昇ってきたせいかタイヤが焦げる臭いがする。風はない。プジョーのエギゾーストパイプが急激に冷やされ、金属が縮むときの甲高い音が響いている。
見上げれば、駐車場を取り囲む木々の枝の間から月夜の青い空が見えた。夜はこんなにも青く見えるってことを久しぶりに思い出した。
遠くに見える夜景は秋の始めの澄んだ空気のなかでゆらゆら揺れている。

その頃、俺はそんな青い夜空の下の暗闇で生きていた。まともな大人がもう寝る準備を始める頃、闇から闇へと渡るように。

手のかかるどうしようもないダメ女を見捨てたのは2ヶ月前のこと。毎日ずっと苛立って生活していたから、別れた最初はこんなにも開放感に溢れた世界があったのかとさえ思った。あの毎日諍いを仕掛けてくる厄介な女が、実は俺との関係に依存しているのは知っていた。でも依存しながら毎日争うような態度しかできない女に俺は疲れてしまい、最後は突き放した。
別れてしまえば、世界が急に静かになった。毎日疲れ果てるほど争っては明け方に眠る、そんな毎日が終われば、とたんに自分がまともに思えてきた。仕事をし、終われば誰もいない家に帰ってビールを飲んで眠るだけ。無駄なガソリンも使わないし、時間を浪費しなくてもいい。何より気持ちをすり減らすようなセックスをしなくてもいい。風呂上がりの冷たいビールや、1人で早くにベッドに入った時の冷たいシーツの感触を心から満喫した。そして何より仕事に集中できる自分に誇りを取り戻そうとしていた。
きちんとしたまともな人生を取り戻そうと。

でも、そんな心地いい生活もほんの一週間くらいのものだった。

夜の仕事がなかったある日、ブランデーを飲みながら1人キッチンで鍋料理を作ってみた。あの厄介な女が好きだった鴨肉の鍋だった。ダイニングテーブルで1人でスープをすくって口に運んだ時。突然胸の中をかきむしられるように苦しくなった。
「アキラは料理が上手だね」そう、あの女が言った。知り合ったばかりの頃、雪の降る夜。あの頃はまだ諍いなんてなくて、いつも笑っていた。女は長い髪をゴムでまとめて、育ちの悪さがばれてしまうヘタクソな箸の使い方で、火傷しそうに熱い白菜を食べていた。ビールを飲みながら職場の嫌味なお局の愚痴を言いつつ、楽しそうに笑っていた。

人って不思議なもんだよ。ふとした音楽とか、どこからか漂ってくる食べ物の匂いとか、音もなく舞う夜の雪とか、そんな些細なことで昔のある瞬間の全感覚を蘇らせるんだから。

1人で鍋を食ってた俺は、何度も携帯電話を開いては閉じた。電話しようか、そう何度も考えては思いとどまった。たぶん電話に出ることもないだろうし、出たところであの頃の2人じゃない。どうせまた苛立つに決まってる。
俺はグラスに残っていたブランデーを一気に飲み干した。
あの頃、長い髪を俺の太い指ですいたとき。しっとりと美しい黒髪だった。「長い髪の女が好きなんでしょ?」そう言った。
「長い髪の、美女が好きなんだよ」俺はそう言った。女はまだ22歳だった。
あの頃の長い髪を、彼女はいつの頃か捨てるように切ってしまった。少年のように短すぎる髪は、まるで苛立った女の心のようにさえ見えた。

そんなことを思い出すと、もう鍋の味はしなくなった。
これは後悔じゃない。未練でもない。ただの嫌な感情でしかない。でも、気持ちをあの頃に忘れてきてるだけだ。

俺はまたプジョー505に乗り込み、吊り目のヘッドライトに火を灯した。
街の明かりへと向かって、坂道を滑るように降りていった。「もっとまともな車買ったらいいじゃない。」そう彼女は言ったけど、俺にそんな金はなかった。オイル交換をするのがやっとだった。

当時、事務所は街外れの古いアパートの一室にあった。事務所なんて呼べるとしたらだ。全部で8室あるそのアパートに入居しているのは、俺がいた事務所と、他に2世帯だった。親子3人で暮らしている不思議な家族と、もう一部屋は、少しガラの悪そうな独身の兄ちゃんだった。親子は親が40代後半風で子供は高校生の女の子だった。車はベンツなんだが、なぜかそんな古いアパートに住んでいる。きっと事情があるんだろうが、いつも俺らにも挨拶をするような明るい家族だった。
もう一方の兄ちゃんの方は、いつも俺らのことを見ると睨むようなやつ。目が悪いだけかもしれない。ホンダの軽自動車に乗っていて、いつも違う女が部屋に出入りしていた。部屋の外まで聞こえてくるくらいの喘ぎ声がいつもした。さぞかしあっちのほうがいい男なんだろう。

ある真夏の深夜、アパートの外が騒々しかった。数名の男が騒いでいる声がした。俺が外に出ていって様子を見てみると、一階に住んでいるあの目付きの悪い兄ちゃんが、これまたいかついオヤジ数名に囲まれている。どうも一発殴られたのか、膝を地面につけている。
「返せねえのか!」と腹の出たオヤジが言う。「返せません!」と兄ちゃんは弱々しく、でも叫ぶ。
「いい度胸だな、じゃあ乗れよ」と違うオヤジが叫び、白いハイエースに乗せられて行ってしまった。ハイエースが行ってしまうと、部屋から若い女が出てきた。タンクトップにビーチサンダルで。セックスしてるところに踏み込まれたのかもしれない。女は俺を見て目をそらし、隠れるように部屋に入った。その日から兄ちゃんを見ることはなくなり、しばらくするとドアの郵便受けに大家がガムテープをして塞いだ。空室になったんだろう。
その後、幸せそうな家族だけが残った。ボロアパートに住む幸せな家族の車は、いつの間にかベンツのEクラスの新車になっていた。

事務所ではいつも俺が食事の支度をした。育ちがよくない奴らが多いから、せめてここで家族の気分にはなれたらと。幾つかの大皿に盛られるパスタとか、どんぶりに大盛りになったエビのチリソースとか、普通のルーで作ったカレーライスとか。普通なら母親が作ってくれるようなものだろうが、多くの女たち(と数名の男たち)にはそんな環境はなかった。ほとんどのやつらに共通するのは、親が置いていく500円を握りしめて買ってくるカップ麺とかパンとかを食べた記憶しかないこと。だからみんな、発育が悪い。女も身長が低く、男は顔の肌がニキビの痕だらけだった。
俺がなにか親心を持ったわけじゃないけど、俺がヘタクソな料理を作るとみんな喜ぶからね。失敗した料理ですら残ることがなかった。そして手作りの料理を食べたあとは、みんな笑顔になった。

そう、あのアパートに住む幸せな家族を、みんなが羨ましそうに噂していた。娘が中学を卒業するとき、事務所の女たちが花束を買ってきて、その家族にプレゼントしていた。それくらい、みんなが欲しがった家庭の姿だったんだと思う。
そして俺もまた、家族というものに縁がなかった。こうして事務所に出入りしたり、時には厄介事を起こしたりするこいつらが妹みたいなものだった。

「ねえ、アニキ」って、ある日、スタッフの1人が俺に話しかけてきた。俺が運転する送迎の車の中でのこと。
「わたし、親に会うことにしたんだよね」と女は言う。

20歳の女だった。虐待を受けて児童福祉施設で高校卒業まで育った。親はふたりともいたが、きっと人格障害なのかもしれない。韓国人だった父親は離婚して故郷に帰り、母親が若い男と同棲して近くの街に住んでいるようだった。

「なぜ会う。必要ないだろ」と俺は言ったよ。みんな親に会いたがる。それがまた自分を傷つけると思っているのに、親の中に自分への愛情が少し残っているんじゃないかと気になるんだろう。俺もそうだったからよく分かる。何度拒否されても会おうとした母親がいた。

女は黙っていたけど、俺に小さな声で言った。「アニキについてきて欲しいんだよね」

いいけど。
どうせ結果は知れている。この子の親は絶対にこいつとは会わない。会ったところで失望させることを言う。それが何かしらの意図があるのか、それとも人格障害なのかは分からないが。
どうせ腹を立てるだけだ。それでよければ俺が車で乗せていく。

「ありがとう」女は言った。

プジョーの窓を開けると、海からの冷たい夜風が吹き込んできた。女の香水の匂いが外に吸い出されていくようだった。

俺は、常に別れた女のことを考えていた。今頃誰かとセックスしてるんだろうか、あのエロいケツを突き出しているんだろうかと。


【つづく】

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