Love Rescue

路面電車に降りたそこは葡萄の香りがした B

恋愛はいつもそうだ。最初は恐る恐る重い車輪が動き始め、そして坂道を転がるように加速していく。そしてブレーキがついていないことに気づいたときには、豪速でカーブを曲がっている。遠心力で外側にふっとばされそうになりながら、それでもどんどんスピードを上げていく。

それが不倫であればなおさらだ。
その頃ある映画を観た。雪がちらつく季節の映画館で、夜10時から始まる回を見たんだ。日本映画だった。そこでこんな台詞があった。

「いつかは別れることに決めている。でもそれは今日の事じゃない」

俺のことだと思った。31歳、この俺の恋愛のことだ。いつかは別れが来る。でも、それを見て見ぬふりするように、今日もまた現実離れしたようなすごい夜景を見たり、気障な演出のデートをしたり、いつもいつもイベントを重ねていく。
連がふと言ったことがある。「結婚っていいことよ」と。「だって、1人で食事しなくていいだもの」

それもまた俺のことだった。生まれた街を離れ、古くて寒いメゾネットのアパートに1人で住んで、毎日キッチンで料理し、一人きりで食事する。毎朝、毎晩。そして、独り言も言わずにベッドに入って、いびきをかいて眠る。誰にもいびきうるさいよと言われない。

結婚っていいことって言う蓮でさえ、この暴走していく下りのトロッコ列車のコントロールは失っていた。
恋愛の末期がいつもそうであるように、俺と蓮は喧嘩が目立つようになった。最初はささやかな言い争いでしかなかった。それが激しい口調でお互いを罵倒し、もう別れるとヒステリックに言っては出ていくようになり。

でもそのまま別れてしまう勇気もなくて、結局また不機嫌そうに電話が来る。
「来週のデートだけど」連が言う。
「行かないことにするのか」と俺が不機嫌に言う。
「んなこと言ってないでしょ。何時にすんの」連が不機嫌そうに言う。

結局、そんなボロボロになっているのに、お互いがこの人生の登場人物から降りてしまうのが怖かった。だから、そう、不倫で一番大切なのが「次の予定を確認する」って行為なんだ。

黙っていたらこのまま消えていくのかもしれないって思っているからだ。
少なくとも次のアポさえあれば、そこまではこの関係は存在するような気がして。

だがそれは普通の恋愛じゃなかった。
蓮は、俺のことを、俺だと認識していないような気がしていた。俺は、蓮の昔の彼氏である35歳の死人を演じさせられている気がして落ち着かなかった。
蓮にとって、不安感から手放してしまい、ずっと後悔と絶望感に浸ってしまうことになるあの男だ。

「私、こんなに怒るなんて経験ないよ?」喧嘩する度に蓮は俺に言った。「アキラにだけだよ、こんなに怒鳴るの」
「旦那には」俺が言う。
「旦那とは喧嘩しないもの」と蓮。
「あのおっさんとは」と俺が言う。
「おっさんってなによ。彼とは一度も喧嘩なんかしたことない」

そう。いつもだった。アキラは旦那よりも格下の男。アキラが35歳よりもはるかにクズレベルの男。そう言いながら、俺との関係に依存する。
しかも、俺のことは35歳の男だと錯覚している。

「そんな服、やめて」蓮は俺に言った。俺は服なんか買う金の余裕もない時代だったから、いつも同じ服を来ていた。何度もリペアをしたデニム、黒いタートルネックのニット、みすぼらしいスエードのブーツ。時計は持ってなかった。金が無さすぎて、冬だというのに持っていたダウンジャケットは近所のリサイクルショップに2000円で売ってしまっていた。
なんてことない、服よりも蓮とのデートとか、関係を維持することに費やしていたんだ。

世の中にはこんなお洒落な服もあるんだよって見せてくる雑誌には、とてもじゃないが俺には買えないような服ばかり載っていた。それは大人の男の服ばかりだった。カシミアのシンプルな高級ジャケット、オールデンやJMウェストンの靴、IWCの洒落た時計、どれも俺には手の届かないものばかり。
きっとそれは、35歳が身につけていたものであるのは気付いていた。

服だけじゃない。考え方とか、言葉のセンス、冗談の洒落込み方、気配り、女のエスコート、そういったことも、以下に俺が拙いかを言い続ける。
じゃあ、おまえの旦那はそれが出来ているのかと言いたくもなった。ただの田舎の男だろうよと思った。お洒落なつもりのただの田舎者だろうよと。

蓮と話すたび、蓮と時間を過ごすたびに、俺は怒りを通り越して「ごめんね」と言いたくなるときが多かった。
俺はそんなステキな男にはなれそうにありません、と。
蓮に何か言われるたびに、俺は自分がいつも誰かに劣る存在だと思い込まされるような気がした。

当時、夜の店を経営していて、俺の周りにはほんと可愛い子たちが沢山いた。夜の営業が終わったころ、女の子数人を連れてよくラーメン屋に行った。そこで、俺は蓮の愚痴をよく言っていたっけ。

嬢たちは必ず言った。「アキラがもったない」と。「何そのオンナ」と。

いや、不倫とはいえ、愚痴を言うような状態はもう終わりなんだよ。愚痴じゃない、悪口だった。

そんな頃、蓮の旦那から俺宛に電話があった。

それは低い声の、いかにも田舎の20代の男という素朴な印象の男だった。

「うちの妻が、お世話になってます」そう言った。

「実は、昨日の夜、うちの妻が車で事故ってしまって」

びっくりして声を上げてしまった。話をよく聞くと、昨日、俺の部屋でセックスしてから帰る途中で、居眠りをして道路脇のくぼみに軽自動車でダイブしたらしかった。

【つづく】

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