Love Rescue

路面電車を降りたそこは葡萄の香りがした A

こんな都会のど真ん中だというのに、葡萄の香りがまたどこからか漂っていた。


地下鉄から階段を登って顔を出したのは汐留の夜の通りだった。地下道から地上に出ると、いつも耳がおかしくなる。階段を登るコツコツという俺のオールデンの足音と、カツカツという美女のヒールの音が静かに反響しているだけなのに、地上に出ると急に立体音響のように奥行きを感じる。


クラクションを鳴らしエンジン音を響かせて通りを駆け抜けていく黒いメルセデス、ピナレロのロードバイクを駆るメッセンジャーは、風の音を残して目の前をすり抜けて行く。姿も見えない誰かの足音が何万人分も聞こえ、白いシャツを着たサラリーマンが笑いながら何かを話す声がする。ゆりかもめが走る高架の道路からはモーターのような音と一緒に、何かが低く唸る音がする。街全体が、地面の底から空に向かって、いろんな音が抜けていく。


見上げると空はもう日が暮れていた。星は一つも見えない。熱いシャワーを浴びたばかりの肌が火照っていた。


「ね、この音聞こえる?すごいね」音羽がそう言う。耳を澄ませてみても、俺にはなにも聞こえない。きっとそれはモスキート音だった。回転扉のモーターがきーきーいう音じゃないの?って音羽は言うけれど、それはきっと近くのコンビニから出るモスキート音だよと俺は言った。もちろん、俺には全く聞こえない。


その葡萄のような香りがどこから漂ってくるのか不思議だった。ガキの頃、祖母の家で嗅いだことがある。裕福だった祖母の家の土地は昔の単位で言うところの1町あった。つまり9900u。広大な敷地に住む祖母の庭には菜園があって、そこに葡萄の棚があったんだ。
その葡萄は甘く実ることは一切なかったけど、その匂いは葡萄そのものだった。酸味を感じる甘い香り。鼻の奥から脳まで突き抜けるような匂い。祖母は葡萄の房から一粒つまみ、俺の口に入れてくれた。


劇場まで向かう抜け道は暗く、こんな都会なのにすれ違う人は誰もいなかった。まだ18時前だというのに。
芝居が跳ねたら何を食べたい?
そんな話をしながら、浜離宮の横の暗い路地を歩いて行く。街頭に照らされふたり分の影がずっと後をつけていた。


・・・・・・・・・・・・


11月になると、次第に冬の気配を感じ始める。それは俺が青森の田舎の生まれだからかもしれない。深夜、家に帰る電車の中で、ドアの前に立つ俺は窓を手で触れてみた。窓ガラスはひんやりとしていて、窓の外に視点を移すと、ラブホテルの看板と居酒屋の看板が照明で照らされていた。


幡ヶ谷駅で降りて改札を出ると、なつみが待っていた。別に待ち合わせたつもりはなくて、さっき帰るよって電話しただけなのに。俺が住んでた部屋になつみも住んでいた。一週間泊めてやれと社長は言ったけど、もう3週間目になっていた。


俺は客の女からもらった、紙袋に入った無駄に高級そうな葡萄をなつみに見せた。わあ、美味しそうって言いながら、なつみは紙袋を覗き込んだ。山梨の有名な葡萄らしかったけど名前は忘れた。覚える気もなかった。大粒の美味そうな葡萄だけど、この駅前の終電近くの混雑の中では、何の匂いもしない。


なつみはずっと仕事を休んでいた。なつみがなぜ急に俺と会わなくなったのか、なぜ突然現れ、そしてなぜ自宅に帰れないのか、俺は一切質問しなかった。本当は聞いてみたかったんだけど、どうせはぐらかされたり質問に答えないんだろうから、そう考えると面倒になっていた。そもそも最初から住んでる場所すら知らなかったんだから。


ただ、なつみとの同居生活はどこか擬似同棲で、これはこれで悪くないのかなって思ってた。俺もなつみもおなじ20歳になったばかりで。なつみはずっと俺の部屋にいた。昼に寝て夜は俺が帰るまで起きてた。俺はいつも15時くらいに起きて、コーヒーだけを飲んで仕事に行っていたから、自宅で料理することはなかったんだ。夜は客のおばさんと食事とセックスを3回繰り返していたので、日中に何か食べるってことが習慣としてなかった。
でも、なつみは一緒に住んでるお礼にって、毎日料理を作ってくれた。昼過ぎにまだ眠いけど起きて、なつみが作ってくれる料理を食べた。たくさんではない。俺が夜からガッツリ食べなきゃならないから、軽くサンドイッチを作ってくれたり、パスタを作ってくれたりね。夜の世界じゃそんなキャラはしてなかった。金髪に近い茶色い髪をポニーテールにし、全体的にシャープなイメージの大人っぽい女だった。パンクと同じく滅多に笑わないような。
一緒に住んでみると、普段はラフな格好で過ごしていた。長い髪をざっくりと束ねメガネをかけて、出かける時はたとえば白いラフなワンピースに、その年の11月は派手な黒いライダースジャケットを合わせていた。
甘さと辛さ、の見せ方を心得た美女だった。


部屋に帰ってシャワーを浴びると、皮膚が針で突き刺したように痛かった。原因は分かってる。もう空気が乾燥してるのにシャワーを一晩に6回も浴びるから。そしてババアのざらついた舌で全身舐め回されるから。人が一番最初に年を取るのはどこだと思う?顔の皺とかじゃないよ。舌だよ。目隠しされてキスしても、俺は相手の年齢は当てられる。


頭を拭きながらソファに座っているとなつみが俺の名前を呼んで、葡萄を一粒、俺の口に押し込んだ。初めて口に葡萄に匂いが広がった。そして、一瞬あの祖母の葡萄棚が目の前に広がった。


「何を考えているの」なつみが俺に言う。
「葡萄の匂いっていいなって」と俺。
「ね。おいしいね」


葡萄畑で眺めた1979年の夜空は、この1992年の東京と違って天の川が見えるほど澄んでいた。


なつみとは彼女でもなんでもなかったけど、一緒に住んでからは深夜に帰ってくるたび、毎日セックスしていた。パンクといいなつみといい、こんなに職場の女に手を出していれば、いつか社長にぶち殺されるだろうなと思ったけど、なつみのフェラチオには勝てるわけもなかった。なつみは喘ぎ声が大きくて、俺はなつみの口になつみのパンツを突っ込んで口を塞いだ。


それでも、なつみがそこにいる理由を俺は知らないままだった。それを知るのは、1月の始めのことだった。突然、なつみは部屋から消えた。手紙も何もなく。1月の寒い夜、マフラーに顔を埋めて部屋に帰ると真っ暗で冷たく、洗面所の歯ブラシや化粧水なんかが全部消えていた。人生で何度目の喪失感なんだろうと思った。
なつみの事情を俺に教えてくれたのは、なつみをメンヘラだと毛嫌いしていたヒナノという19歳の女だった。


・・・・・・・・・・・・


24歳の人妻、蓮との不倫は、俺にとって、自分がいかに自分をコントロールできないのかを思い知ることになった。31歳。まだまだ若いけど決してもう若くもなく。俺は普通の31歳よりもずっと経験を積んでいたはずだった。当時でももう3000人ほどの女性経験があったし、どうしようもない喪失感も、好きな女に惨めに捨てられることも、好きな女に影で馬鹿にされることも、セックスに溺れ死にそうになったことも、いくら好きでもどうしようもないことだってあることも、俺は知っていたつもりだった。


毎日、毎日、確実に俺は蓮に夢中になっていた。蓮とは夏に出会い、雪がちらつく頃には俺の部屋に毎日通ってくるようになっていた。部屋にいるのはほんの40分程度のものでしかなく、蓮は部屋に着くとすぐに俺に抱きついた。
「年のわりに身体に臭いがないんだね」と連が言う。
「年のわりにって、俺はまだ31歳だよ」
蓮という女は、当時俺の周りにいた女たちとは全く違ってた。俺の周りの女はプロの女ばかりで、服装から髪型、喋り方まで計算され尽くしたようなやつらだった。蓮は彼女たちと較べて洗練されていたわけではない。もちろん美人だし笑顔もいいんだけど、普通の24歳だった。経験人数も俺以外に2人だけ。その普通さが俺には新鮮だった。
俺の周りの姉さんたちはきっと、少なくとも1000人は経験してたはずだ。1000人も経験すればみんな逆に純粋さが際立ってくるんだ。良くも悪くも。たったひとつの些細な恋愛に、感情をぶん回すような生き方をするようになる。でも、蓮のように経験が少ない女性は、まだ恋愛の地獄沼を覗き込んだことすらない。蓮の無邪気さは地獄を知らないからであって、俺にはそれが透明感にも思えて、どんどん気持ちに入り込んできた。


しかし、その蓮も、雪が積もり始める1月には少しずつ壊れ始めてきた。
蓮は言った。死んだあの35歳、金持ちで変態で精神的に少し問題があった昔の彼氏がアキラに乗り移っているじゃないかっていう妄想に取り憑かれてしまった。非の打ち所がない完璧な男。


俺は訊いたよ。「そいつはどんな男だったの」って。「なぜ別れたの」って。


「親に会わせられる人じゃないと思ったんだ」と連が言う。その日は旦那が出張でいない日で、めずらしく2人でワインバーで話をしていた。
「なぜ。なぜ会わせられない?」と俺。
蓮は少し黙って考えていた。
「きっとあの頃、そんな年の離れた彼氏を会わせたりして、親が不機嫌な顔になるのが怖かったから」
「ふうん」と俺。
「親はきっと、今の旦那のような人と付き合うのを望んでいたから。」


俺は大きなグラスに注がれた白ワインを持ち上げ、鼻に近づけた。ナッツのような香りの奥に、葡萄の棚の下に寝転んだ時の匂いを感じる。そう。祖母のあの庭園の葡萄の棚の。チェスコーニ・ノジオラ。カジュアルな印象のワインだった。ワインには何も詳しくないけど、強烈に祖母の畑を思い出す。


「蓮はさ、その頃、どうありたかったの」
俺が質問すると蓮はまだ黙った。蓮のグラスにワインを注いだ。
「わかんないけど、好きで好きでどうしようもなかったよ。初めて夢中になった彼氏だったから」
「うん、それで?」
「好きだけど過去もあって。過去のことが私には全然見えなくて。子供だったから私は質問できないと思ってたし。それよりも、きっと、わたしはいろんな人に反対されたり嫌な顔されたり、祝福されないって思ったらなんか怖くなって」


俺は口に出して言わなかったけど、アキラって男は、その35歳のスピンオフみたいな存在だろ?って思った。俺の物語を感じることで、その35歳っていう主人公の存在を感じていたいんだろ。つまり俺はさ、別れた彼女をイメージして抱く風俗嬢みたいなもんだ。
「誰をイメージしましたか?」ほら、夜の女をしていた那月が初めて出会ったホテルで俺にそう言ったよな。俺はそういう存在なのは分かってた。


そこに蓮の旦那の存在はない。悲しいことに、旦那の事で悩むことは一切なかった。愛着はあっても、きっと愛情や依存を抱くことは、蓮にはなかった。


その旦那から電話がかかってきたのは、零下17℃を記録した吹雪の夜のことだった。


・・・・・・・・・・・・


「パフェ食べようよ」


音羽が言う。どうせなら昭和の匂いがするパフェがいい。


新宿で向かった超老舗のフルーツパーラーには、ピオーネのパフェが期間限定で置かれていた。大きな粒をまるごと乗せられた贅沢なパフェ。


そこの店は、祖母がいつも懐かしんでいた店だった。あたりを見渡すと、祖母のような年の女性がたくさんいた。みんな一人で座っていた。


「そういう店では、みんな思い出と向き合ってお茶をしたり食べたりするのよ。だから1人でいいの」
昔、客だった金持ちの中年女性が俺に言ったのを思い出していた。


美味しいね?音羽が言う。


ピオーネの香りが、喉から鼻を抜け、脳の中を乱暴に駆け抜けるのが分かった。まるで湿った風が家の中で吹き抜けていくように。




【つづく】

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