追い求めるモノの価値変動

人間が追い求めるモノ。
これはその人その人にとって千差万別、無数で数限りない。
大きい規模から小さい規模、大きい数から小さい数、大きい中身から小さい中身…その追い求めるモノは、仕事だろうか、家庭だろうか、人間関係的幸福だろうか、お金だろうか、学歴だろうか、病気の克服だろうか…キリがないので一旦カットアウト。

そう。
追い求めるモノには、基本的にキリがない。

これが手に入れば今度はそれ、それが手に入れば今度はあれ。というように、手に入れられる総体的距離が近いモノからドンドンドンドン手に入れようとする。

そりゃ皆が皆、誰だって欲しいんだもん、あれやこれやを。

そのあれやこれやを、平均化、いや究極化、つまるところ、あれやこれやを手に入れてどうなりたいかというと、少なくとも過半数以上は、これが欲しいんじゃないか?と考えている。




言葉である。



何らかの言葉。

褒め言葉、けなし言葉、厳しい言葉、敬われる言葉…それこそウンヌンカンヌンを使わないとこれまたキリがないだろうというほど、

何らかの言葉を求めているのではないかな。


いくら何が手に入っても、何らかのかけてもらえるはずの言葉が手に入らなければ、
なぜ?
に陥るはずだ。

なぜ、これだけやって色々進んでるはずなのに、言葉や文字が自分の周りにないのだろうか?と。


怒りや厳しいモノも含め、また褒め言葉なども含め、
かけてもらえる言葉や届けてくれる文字がなければ、
人間はそれを孤独や孤立と捉えやすい。

基本的に、言葉の集まるところや対象には、

誰かが求めているモノが集約されているように感じ羨ましく思い、それを求めようとする。


しかしながら、その集約されている当の本人はプラスばかりの恩恵を受けているわけではなく、むしろプラス以上のマイナス、いわば恩恵にかわる代償を受けていることだってあるだろう。


しあわせ、には、それに匹敵するかそれ以上のリスクと危険が隣合わせである。

つまり、そのしあわせを求めるのなら、自動的にリスクと危険も求めることになる。

最近の世の中は本当に便利だ。
便利であるが故に、便利に匹敵するかそれ以上の危険もある。
簡単な例を挙げるなら、車とか、スマホとか、プライバシーの保護ツールとか、ネットとか、クレジットカードとか、なんかもう山のよう。

しかし、皆が皆、便利という危険を自ら望み、手に入れていっている。

これは、時代がそうなんだから、仕方ない。


いちいち危険ばかりに目を向けていては、スマホも車もカードも何もかも使えなくなる。


そして、もちろん、



言葉も同様である。



言葉においても、プラス面マイナス面がある。


幸福と危険、代償。


その言葉を使うか使わないかはその人次第。
何らかの言葉を求めるか求めないかはその人次第。


危険や代償が嫌なら、言葉から圧倒的に距離を置いたほうがよさそうだが、
危険や代償もない先に待っているのは、

言うまでもないだろう、



孤独、孤立である。


言葉、文字、記号、存在。これらのような、自分以外の何かをシャットアウトすると、幸福は無論逃げていくが、危険は先の説明と違う形で残ってくる。

危険の例は敢えて出さない。
ニュースや社会問題でよく取り上げられているからすぐにわかるはずだ。


だからこそ、危険やリスク・代償からは、逃れることは完全不可能である。

それはこの世の中が便利で、ある種の幸福が揃っている以上、危険やリスク代償も揃っている。この揃っている危険などを突き放す=その便利幸福を突き放してしまってはその時代を突き放しているのと同じ。つまるところ、時代に取り残されることになる。

この流れで話すと、

言葉もそうだ。


この時代において、言葉に類するモノは、追い求めなければならない。
言葉を飛ばすことがいとも簡単にできる時代であり、受けとることも容易い。
明らかに、求め、求められている。需要と供給が異常な右肩上がり状態。
そのため、問題は溢れかえっている点にある。何が何で、どれが何なのか、わけがわからなくなっているのが実情だ。

便利幸福と危険リスク代償。

言葉と今の時代は、密接な関係性を持っている。


言葉を飛ばす、受けとることが簡単になった。が、その簡単さというのは、その行為における手段方法が簡単なだけであり、
飛ばす受けとるという事実的結果を残すのは簡単ではない。
どういうことかというと、人は人に対して言葉を簡単に与えようとしない。強いていうなら、簡単に与える言葉は、ほとんどマイナス面を含む言葉。

プラス面の言葉は、おもしろいほど人に与えない。それが人間の本質。

だから、欲しがる。おもしろいほど与えてもらえないことを知っているモノほど、欲しいのが人間である。

とはいえ、この時代の特徴とこの人間の本質を擦り合わせれば、
おもしろいほど手に入らない欲しいモノ=与えるための手段は簡単だが与えることが難しいモノ=言葉、を求めるというのは、全く不思議な現象ではない。
むしろ、時代に合っている。問題は、もらうことが先行し、与える手段ではなく与える行為が確実に不足していることだ。

言葉を自分に集める人の共通点がある。

その人は言葉を多くもらっているのではなく、多く与えている。そして、与える時に、必ず、危険リスク代償をしっかり負っている。
隣合わせルールを違反することはない。

結果としてもらう言葉は、偶然もらったモノではない。必然。もらって然るべきだろう。



追い求めるモノ、は、追い求める者のところにしか、集まらない。
しかしながらそれを集めたけりゃ、
手段の難易度を除いた、人が簡単に与えないモノを、自分が先行して与えることだ。


与えてもらってもそれをまたどこかへ与える道がないと、もらっても宝の持ち腐れである。
持っていることが価値ではなく、どれだけ与える道があるか、が価値になっていると考えている。

それはなぜか?


すでに、溢れかえるほど揃っているからだ。

これ以上持って離さないでいると、
時代の価値変動に取り残される。










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