妄想-2 トラウマ


扇風機のタイマーの切れた寝苦しさで目が覚めて、用もないのに目が覚めてしまう。いや、用というなら、中学の時から付き合っていた彼女との関係を、終わらせ「られ」にいく予定が夕方に入っていた。朝6時半という時間はその予定には早すぎたし、ぼくと彼女の終わりが今日だということを知るのも、やはり早すぎた。
ぼくと彼女とは別々の高校に通っていた。同じ高校に進学する、という中学生らしい可愛い夢は、ぼくが受験に失敗し、滑り止めの私立の高校に入学したことであっさりと叶わないものになってしまった。
それから3ヶ月が経つうちにぼくたちの会う回数は徐々に減っていった。それには、単に別々の高校に通っているからという理由よりも、ぼくの浅はかな劣等感の方に原因があった。
一緒にテスト勉強をしても、ぼくの高校のこの間の期末テストの範囲は彼女の高校の中間テストの範囲と同じだったし、彼女が話す、新しくできた友達との出来事のようなことは、ぼくの周りにはひとつもなかった。そんな些細なことで感じていた劣等感に彼女も気付いているようで、7月に入ってから会ったのは一回きり、それも、タクミとナオコも一緒の、件の勉強会でだけだった。ぼくとナオコのために勉強会、という看板を掲げてはいるものの、実際のところは同じ進学校に通った彼女とタクミからぼくとナオコが勉強を教えてもらう会、の体をなしていた。
タクミから「彼女が浮気しているかもしれない」という話を聞いたのはその帰り道でのことだった。
ぼくとタクミは同じ団地の別々の棟に住んでいて、中学の時から学校帰りに誰もいない団地内にある公園のブランコに座って二人で話していた。彼女に告白しようと思っているという相談をしたのもこの公園だったし、まさか同じ公園でそんな話をタクミからされるとは思ってもみなかった。
「先週の金曜日、部活で俺だけ居残りしててさ、校舎に残ってるのはもう俺ひとりだけなんじゃないかと思うくらい静かで、ちょっと不気味だったんだ。下校時刻はとっくに過ぎてたし。廊下の電気はついてるけど、どの教室も真っ暗でさ」
話づらそうにボソボソと話しはじめたものだから、ぼくはこれから怪談でも始まるのかと思い身構えていた。周りを見渡すと夜の団地はどこからでも幽霊が出てきそうで一層怖くなり、ぼくは自分の揺れる脚だけを見ながらタクミの話を聞いていた。
「一回不気味だと思うとなんだかどんどん怖くなるだろ?それで急いで学校出ようと思って、少し早歩きで廊下を進んでた。そしたら急に教室のドアがガラッと開いてさ、驚いて俺、ちょっと隠れたんだよ」
何が出てきたんだろうか、七不思議の幽霊か、はたまた見回りの体育教師だろうか
「そしたらさ、塚田って、まあ野球部の副キャプテンやってる2年の先輩がさ。カオルと、小指繋いで出てきたんだ。」
それは、ぼくが想像していたいくつもの怪談のオチよりも遥かに恐ろしい結末だった。
それからのタクミの話をぼくは全て流し聞きして、自分の家の小さな畳の部屋に戻り、風呂にも入らずに布団に潜り込んだ。
その夜タクミから野球部の同級生から裏が取れたとの連絡が来た。全てを伝えることが優しさだと勘違いしているようだ。返事も返さずに、朝方、少しだけ眠った。
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それから4日後の昼休みに彼女から花火大会に行こうという電話があり、ぼくはそれを了承した。そして花火大会当日の朝になっても矮小で臆病なぼくは彼女にそのことを聞きあぐねていた。だいたい、浮気しておいて、花火大会に呼び出して別れを告げるって、なんて酷い女だ。きっとこの先花火を見るたびに今日のことを思い出す。あの人は、そんな酷いトラウマをぼくに植え付けようとしているのだ。それならばぼくにだって考えがある。まだ予定の時間まで10時間以上あるんだ。
布団を抜け出すと、ぼくはまず湯船に冷水を溜め始めた。今まで朝から冷水を入れられるなんて経験をしたことがない湯船自身も驚いたような顔でこちらを覗き込んでいた。「水でいいの??」そんな問いかけにぼくは蛇口をさらに捻ることで答えた。これでいいんだ。
裸になって湯船に入る。じわじわと水位が上がってきて、顎の下まで溜まったところで水を止めた。タクミから話を聞いてからの今日まで、ぼくはこの湯船の中のような心境だった。約束の日まで、1日ごとに冷水が注がれる。足の先から冷えてきて、金玉も縮こまって性欲なんてもちろん湧くこともなく、寒さで手も上手く動かせない。心も冷え込んできて、このまま溺れて死んでしまうのが先か、奥底まで冷え切って寒さに慣れてしまうのが先か。顎の下まで水位が上がったところで、溺れ死にも冷え切ってもいなかったぼくは、そのどちらよりも彼女に別れを告げられることが嫌だったので、この水風呂作戦に出た。風邪をひいてしまえば、流石に弱り目に祟り目のようなこと彼女はするまい、と。ああ、なんてぼくは弱虫なんだろうか。そう考えると涙が冷えた頬を伝った。それがやけに熱く感じて、ぼくは風呂から上がった。
1時間たっぷりと体を冷やし、ぼくは自分の部屋に裸のまま戻った。が、エアコンのないこの部屋がぼくの体を温めなおすのに時間はそうかからなかった。暑い。暑すぎる。今年の異常な暑さは、簡単にはぼくを落ち込ませてくれなかった。何を考えていても、暑いという感情が頭にちらついてしまうからだ。
ぼくはなるべく余計なことを考えないように、お気に入りのTシャツを着て、団地から10分ほどの場所にある図書館へ、いくつか夏休みの課題を持って出かけた。
図書館の中はまだ朝だというのに学生たちで溢れていた。自転車を漕いできたぼくには冷房の効きがやや甘く感じたが、あの部屋よりはずっとマシだった。
まだかろうじて空いていた席につき、国語の教科書とノートを開いた。高校生になってから実際にやってはいないものの、ぼくはどうしても癖で段落ごとに@、A、B…と番号を振ってしまう。こうすることで文脈が移り変わる場所、主人公の心情などがわかりやすくなると小学校の先生が言っていたからだ。@彼女が浮気をしているらしいAその上で花火大会に誘ってきたBぼくは何も言えずに当日まで過ごしてしまった。 Cはどうしたもんか、とまで考えたところで、これはただの箇条書きであることと、ぼくは物語の主人公なんかじゃないことに気がついて嫌になった。
夕方まで図書館で課題をこなした。途中、机に課題を広げたまま外のベンチにカロリーメイトを齧りに行った以外、かなり熱心に取り組んでいたが、図書館を出る頃にはもうなんの勉強をしていたのかわからないくらいには上の空だった。
ぼくは、問題を先送りにする割に解決策を考えない節がある。受験もそれで失敗したようなものだったが、今回のこの問題もそうだ。一週間、何か行動を起こしていればこんな憂鬱な気持ちで花火を見に自転車を漕ぐことにはならなかったはずだ。でも、ぼくは今でも彼女のことが好きだから、ぼくから別れを告げるなんて出来ないし、かといって彼女の気持ちをぼくに向けさせる自信もなかった。高校生にもなってその塚田という野球部の男に喧嘩を売るなんて馬鹿なことはしたくなかったし、浮気をした彼女を怒るなんてもってのほかだった。ぼくはぼくが大事なだけのダメな男なんだ。
だからこの一週間、ぼくは自分を責めることだけに努めた。矮小なプライドも、自分のせいの劣等感も、勝者のいない敗北感も、ぼくは持つべきじゃ、いや、持ったとして、それを二人の関係に持ち込むべきじゃなかったのだ。一人で抱え込んでさえいれば、こんなことにはならなかったはずだ。
約束の時間になると、彼女は浴衣姿でそこに現れた。なんてことだ。花火だけでは飽き足らず、浴衣にまでトラウマを植え付けるつもりか。そうは思ったが、ぼくたちはその祭りを普通の恋人同士のように過ごした。りんご飴を買い、射的で必要ないぬいぐるみを取った。お揃いのヨーヨーを釣り、たこ焼きと焼きそばを買って、食べながら花火の場所取りをした。彼女が持ってきた2人用の小さなレジャーシートに腰を下ろし、最初の花火が上がるのを待った。それまでの会話もありふれた恋人同士の会話だった。でも、この時にはもう彼女がぼくの知らない友達の話や楽しい授業の話をしても、例の劣等感は抱かなくなっていた。だから本当に、ありふれた恋人のように、笑って過ごすことができた。きっとぼくも彼女も、これが最後だとわかっていたからだ。喧嘩もしたことがなかった2人だから、何があっても最後は笑って、その方が、ぼくたちらしい。
ひゅ〜、どん、と1発、試し打ちの花火が上がった。
お〜っ!という歓声が湧き上がるが2発目以降はなかなか上がらない。白煙の揺らぐ沈黙の中で、彼女が口を開いた。
「タクミから、聞いたんでしょ」
「うん」
「どうしてなにも言ってこなかったの?」
「言っても何かが変わるわけじゃない」
「そういうところが嫌だった」
「うん」
「でもそういう人だって知ってたし、そういうところも好きだった。周りの誰より大人だと思ってたし、物事を一歩、こう、引いた目で見てるでしょ、それが、私はできないから、憧れてたの」
「うん」
「でも高校に入ってから、変わっちゃった。私、なんかしたかな?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ。今も、カオルのことが好きだし、カオルがわるいわけじゃない。」
「ならなんで?」
ひゅ〜、どん、と2発目の試し打ちの花火が上がった。今度こそ始まるか、と思ったが、花火に出資している会社の広告が読み上げられただけで、見物客からも不満の声が上がった。
「同じ高校に行けてたらな。こんなことにはならなかったと思う。今日一日そのことを考えてた。劣等感とか、敗北感とか、そんなもの2人の関係に持ち込むべきじゃなかったって。」
「劣等感?」
「そう。カオルは受かって、ぼくは落ちた。悔しかったから、カオルの学校の話なんか聞きたくもなかった」
「そんなことで?」
「そう、そんなことで」
ぼくは自分が惨めで、笑った
「そんなことでカオルは先輩と浮気して、ぼくたちはこれでおしまいだ」
「うん。そっかあ。うん。」
「うん」
「怒ってないの?」
「怒っても、何も変わらない」
「ほらね、やっぱり、そういうところが嫌だった」
そういうと彼女は俯いて、泣いた。
「ごめん、ごめんね、ごめん...」
ひゅ〜、どん、という今日三回目の音を皮切りに、今度こそ本当に花火大会が始まったようだ。ぼくを含めた見物客たちは皆、どうせ試し打ちだろ?と思っていただけに始まりの合図もなくだらだらと始まった本番にすこしだけ驚いていた。夏の風物詩に狼少年のレッテルを貼られたくなければ来年以降試し打ちと本番の境目をはっきりさせた方がいい。花火が彼女の泣き声をかき消す最中、そんなことを考えていた。許しも、怒りもしない。これがぼくの出した結論だった。
それからぼくは花火が終わるまでじっと足元を見ていた。側から見れば花火も見ずにずっと俯いている変なカップルだったことだろう。
一つ花火が上がるごとに彼女との思い出を一つ思い出し、もう一つ上がるごとに記憶から消していった。中二で隣の席になったこと、家庭科の授業で作った変な味のクッキーを食べさせられたこと、二人乗りの自転車で一晩かけて海まで行ったこと、帰ってきてこっぴどく怒られたこと。一緒の塾に通ったこと、一緒の高校を受けようと夢を語ったこと。ほかにも、いっぱい、いっぱい。
花火大会が終わったことに、ぼくはしばらく気がつかなかった。顔を上げ、隣を見ると彼女はもうそこにいなかった。先輩のところに別れたことを報告にでも行ったのかもしれない。ゴミだらけの会場に1人で体育座りしているぼくとは正反対だなと思った。
小さな町の小さな花火大会だ。ぼくたちの思い出を全て消すには、花火の数が少なすぎた。
トラウマのように残ってしまった、美しく光る彼女の浴衣姿を夏が来るたびに嫌でも思い出すんだろう。






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